エンジニアの夜時間

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「クレールという女」を読んで

「本棚を整理していて、むかし読んだ本のことを思い出した。もう一度、読んでみたい。なつかしいというよりも、四十年もまえにそれを読んだとき、大学院生だった私たち仲間がつよい衝撃を受け、夜を徹してそれについて話しあったあの本を、いま読んだらどんなふうか、それが知りたい気がした。」
この文章は作家の須賀敦子氏が書いた「クレールという女」というエッセイの冒頭です。ちょうど私がこの本を再読した心境と似ていたため、この奇妙な偶然に思わず吹き出してしまった。

私がこのエッセイと出会ったのは高校卒業後の浪人生時代、現代文の問題演習の中だった。当時使ったテキストの中身はほとんど覚えておらず、例外がこの「クレールという女」だ。そのぐらい読んでいて強い衝撃を受けた文章だった。ふとこの本を思い出し、何に衝撃を受けたのか思い出したくなり、Kindleでこの文章が載った「遠い朝の本たち」を買ってしまった。
まず説明するとこの「クレールとい女」は須賀敦子氏が昔読んだ「人間のしるし」という小説について書かれており、クレールというのは小説の登場人物のことだ。「クレールという女」の中でクレールと夫のジャン、友人のジャックとの関係や心情について、須賀敦子氏の体験と混ざり合う形で説明される複雑な構造で、当時も難しいと思いながら読んでいた。久々に読みながら、この文章の中で叢書という言葉を知ったことや、この文言もあの一文も過去確かに読んだこと、などを思い出した。
読み返してみると言葉の力が強い。当時の私はその内容に強い衝撃を受けていたのだが、今も印象に残り読み返したくなるのは言葉の強さがあるからなのだろう。「クレールという女」以外の他の短編も読んだが、どれも印象に残る言葉が綴られている。

「人間のしるし」の中でクレールは自分の理想を応援する友人のジャックと、現実の生活を支える夫のジャンの間におり、夫のジャンはクレールの様子に動揺し、ジャックへ嫉妬する。須賀敦子氏の言葉を借りると「目のさめる思いであの本を読んだのは、そこに『人間らしく生きる』とはなにかという問題が、根本のところで提示されているように思えた」本で、彼女は理想と現実との差に悩む自身の境遇と重ねながら、友人達と生き方について興奮して話し続けたそうだ。彼女はこの本を読み返し過去を振り返り、まだ人生の喜びも悲しみも経験していない若者だった自分の言葉は「たとえようもなく軽かった」と評している。私はそれを読むことで人生を知った気でいたのだろう。

当時の私は18歳の若者によくある悩みと進学の問題を抱えながら「クレールという女」を読み、まだ見ぬ自分の人生について想像した。今から考えれば、実際に経験したことの無い人生なので知った気でいたのも仕方無いことかと思う。あれから20年近く経ち、自分も家族を持つ大人となった。当時は考えもつかなかった人生の波風に晒されることもある。もちろん幸福な出来事も同じぐらいある。これからも続く人生については、まだわからないことばかりだ。また何年かしたらこの本を読み返し、自分の人生について考えるだろう。